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11月28日(日) 貧困や エイズと戦う 子どもたち 無垢な笑顔が なおさら悲し

171128

 南ア経済・財政・金融の調査のため要人訪問の日程。まず、パリムさんというスタンダート銀行のエコノミストと、アフリカ経済の問題について語り合う。そして、日本の草の根援助で教室等を作ったというバナレント学校へ。子ども達が、歌と踊りで迎えてくれる。聞いてみると、両親をエイズで失った子どもも多いと言う。小錦のような体型の迫力ある女性校長先生の教育への情熱に頭が下がる。

 午後は、マニュエル財務大臣と懇談。そして、日本の日銀総裁にあたるムボエニ準備銀行総裁との話し合いを行い、午後4時45分ヨハネスブルク空港発の南ア航空68便で次の訪問地ザンビアへ向かう。

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11月26日(土) マンデラが 幽閉されたる ロベン島 四半世紀も 何信ぜしか…人の心の強さを思う

171126

 官公庁が休みなので、午前中には、マンデラ・前大統領が26年間幽閉されていたロベン島の刑務所を視察。ポール・ランガさんという、やはり政治犯でこの刑務所にいた人が案内をして下さる。粗末な建物のあちこちに当時の囚人たちの思いが偲ばれるものがあり、ここで長い月日を過ごした人たちの祈りや怒りを感じる。

 その後、ケープタウンのまちに戻り、ウォーターフロント開発地域で食事を終えた後、南方航路を開拓したバスコ・ダ・ガマが1497年に発見したとされる喜望峰を訪れる。思ったよりも随分小さな低い岬であったが、アフリカ大陸の南端に至った喜びと共に、希望峰(Cape of Good Hope)と名づけたのであろう。空が青く澄みわたり、広大な大西洋とインド洋の白波と共にとても美しい風景であった。

 27日は、朝空港に向かい、そこから、南アフリカの商業の中心地であるヨハネスブルクへ飛ぶ。約2時間のフライトである。そして、サントンというヨハネスブルク郊外のまちで昼食。そこから、アパルトヘイト政策時代にシンボル地域の1つであった黒人移住区ソウェトへ向かう。
 まず、ヘクター・ピーターソン記念碑・博物館へ。このヘクター・ピーターソンというのは、警察との闘争の中で生命を落とした子どもの名である。この子の亡きがらを抱える兄弟の写真が世界に流れ、国際世論が南アのアパルトヘイト政策を批難する1つのキッカケとなったと言う。人種差別の歴史や解放の戦いが、テレビ映像等を使って、示されていた。

 そこから、次は、マンデラ前大統領が元々住んでいた家を訪れる。恐らく十坪余りの小さくて粗末な家であった。そこに、マンデラ氏の人生を象徴する色々な品物が陳列されていた。

 このまちの名はソウェトと言うが、この名の由来は、ヨハネスブルクの南東のまちということで、South West Townの頭の文字を集めると、Sowetoということだそうだ。当時の黒人に対する考え方が、こんなまちの名前にも現れていると思うと、少しやるせない気持ちになる。

 その後、小型サファリとも言うべき、ライオンパークを訪れ、この日の夜も、邦人との夕食会。色々な話題が出され、考えさせられる。

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11月24日(木) 飛行機で 一昼夜かけて ケープに到着 時差7時間に 頭もクラクラ

171125

 衆議院財務金融委員会の海外事情調査のため、まず南アフリカに向かう。

 成田空港を24日(木)午後5時50分発JAL711便で出発。7時間半かけてシンガポールのチャンギ空港へ。そこで約2時間待って南アフリカ行きのシンガポール空港317便でヨハネスブルクへ。そして更にケープタウンへと向かう。この乗機時間は約14時間。合わせると約24時間に及び、正に一昼夜かけてケープタウン到着であった。

 アフリカは、まだまだ日本人にとって意識的にも遠い土地であるがその1つの理由は、飛行機を使ってさえこれだけ長い時間がかかるという交通上の距離感もあるに違いないと思う。

 この日は、ケープタウンには南アフリカの国会議事堂が置かれていて、政治上の首都でもあり、ここでネネ財務委員長とお会いして、南アフリカの財政状況、日本の援助の必要性等について意見交換。また国会議事堂にも訪問して、本会議場等を見せて頂いた。

 その他、国立植物園やワイン農場を視察し、夜は邦人3名と懇親会。

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11月22日(火) 我が歳と 同じ歩みの 自民党 どちらが先に 寿命終えるか…とふと思う

171122

 自民党立党50年記念党大会が、午前11時から、新高輪プリンスホテルで行われた。

 戦後10年を経て、日本の国が復興に向かっている時、自由党と日本民主党の合同によって、結成されたのが自由民主党。以来、半世紀。その間、細川・羽田政権の1年弱の期間を除けば、ずっと政権の座にあったのがこの自由民主党であり、その意味から国民政党・責任政党と呼称されてきた。

 実は、私の誕生年とこの自民党の結成の年が同じ昭和30年である。私が4月で自民党が11月だから、半年余、私の誕生の方が早かったことになる。しかし、学年で言えば同期生であり、同期の桜ということになる。“咲いた花なら、散るのは道理、見事散ります国のため”などという歌詞がふと頭をよぎる。

 実際、これからの自民党はなかなか大変である。この日、小泉総裁が登壇してご挨拶をされたが、“これまでの日本の大きな改革は、明治維新にしろ、太平洋戦争前後にしろ、外部との戦いの中で、多くの国民の特性を経て為されたもの。しかし、今回の改革は、平和な中で行うもの”という言葉の中に、並々ならぬ決意を覚えた次第。生命を懸けるくらいの思いで立ち向かわなければ、とても為し得ないことであると思う。

 これまでの50年を振り返りつつ、改めて、自民党の使命を胸に、これからも力を尽くしてゆきたいと思う。それにしても、私と自民党。どちらの方が長くこの世に生きていることになるのだろうなどと、また雑念が頭をよぎる。

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11月20日(日) 塩ジイと 呼ばれ人気の 先輩迎え 語って頂く 政治の要諦

171120

 午後1時から、新居浜市にあるユアーズという会館で、自由民主党新居浜支部と県第3選挙区支部共催による第14回時局講演会を開催。

 この日の講師は、2年前まで財務大臣を務められ、「塩じい」と呼ばれ国民に親しまれた塩川正十郎先生。テーマは、「少子高齢化時代を迎えて」。参加者約800名。

 先生は、今84才だそうである。講演の冒頭にそのことをお話されると会場がざわめいた。先生のお元気な姿やテレビなどの活躍ぶりを見ていると、とてもそんな年齢に見えなかったということであろう。

 お話は、最初に、中国・後漢書中の言葉だと、“疾風は勁草を知り、日久しくして人心を知る”という言葉を紹介され、日本の政治家は、これから本当に誠実な人が必要な時代となると語り始められ、そこから、現在政治の課題、そして本題である「少子高齢社会」に日本がいかなる政策を打ち立てながら、この困難な時代を乗り切ってゆかねばならないかといった点について、とても分かりやすいお話をして下さった。

 後で聞いてみるととても好評であった。
 その後、自民党関係者との懇談会。そして、私も一緒に松山空港まで先生をお送りさせて頂いたが、私自身も色々と考えさせられ、良い勉強になった。

 とりわけ感心したのは、年齢を重ねられ、国の重要な仕事を数多く経験しておられるにも関わらず、謙虚にして柔軟な生き方・考え方をしておられることであった。自分自身がこの年齢になって、こんな風に生きていられるだろうかと思うと、塩川先生のこの人生姿勢に深く感じ入ったのであった。

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11月18日(金) これからは 地域起こしも 外交も 人育ててこそ 何ぼのもんやね

171118

 午前中は、自宅で、新聞に目を通したり、OAK・TREE原稿の執筆・修正。

 午後、新宮のヤング・リーフ・ハウスへ向かう。
 実は、この日、韓国・釜山で長い間、青年育成の場として活動をしている「機会学塾」のメンバーが、ヤング・リーフ・ハウスをお訪ね頂くことになっているのであった。午後4時半頃、代表の劉判珠さんをはじめとして17名の塾生達がやって来た。そして、ヤング・リーフ・ハウスの教室で、懇談会を開催した。

 まず私から、このヤング・リーフ・ハウスを作った思いと活動内容をお話をして、その後意見交換会としたのだが、この山中に研修所を作った考え方や私自身が技術系の人間でありながら、何故政治家になったのかなどの質問があり、活溌な話し合いを持つことが出来た。

 尚、今後、釜山地域と四国との交流を進める意味において、釜山から松山間の航空路開設と相互交流の可能性研究と日韓版「志の道」事業を今後の課題として検討してゆくことに合意をすることが出来た。

 それから新居浜へ戻り、夜は新居浜商工会議所青年部皆さんとの懇談会。テーマは、“ゆちげ運動の推進”であった。これから若い人たちが中心になって地域の活力を生み出すために、“夢出せ!知恵出せ!元気出せ!”のスローガンの下に、自ら夢を描き、それを実現する運動を始めてゆこうじゃないかと問題提起をしておいた。かなり良い反応が返ってきたのではないかと思う。

 これからの時代は、人間が大切である。自らの頭で考え、自らの足で歩ける人を育成し、結び合わせ、大きな可能性を切り拓いてゆきたいと思う。

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11月17日(木) 用済みの モリゾーキッコロ 横に置き ロボット君は 益々元気!

171117

 この日も、午前中は、主に執筆と雑務処理。
 昼前から、清和政策研究会の政策委員会及び在京議員昼食会。その後、事務所で来客応対等をした後、名古屋へ向かう。

 名古屋市内にある愛知芸術文化センターを会場として、この日夕刻から“ものづくり愛知・ロボット技術の実用化フォーラム”が開催されたのであった。参加者は約120名。

 ロボット万博とも言われた愛知万博の後に、いかにこのロボットを地域産業として育成してゆくかを議論しようという会合であった。私がコーディネーターを務め、福田敏男・名古屋大学教授とロボットの製造販売をしている木村憲次・(株)ビジネスデザイン研究所社長がパネラーを務められ、約1時間半のフォーラムを行った。

 集まった方々は、愛知県の産業労働部長をはじめとする県職と中部経済連合会の企画部長等、そして、民間企業のロボットに強い関心を持っておられる方々であった。それだけに、熱気にあふれる会であり、私たちのプレゼンテーションの後の会場を含むディスカッションも、なかなか活溌であった。

 私は、以前から言っているように、これからの10年間でロボット産業を10兆円産業に育てたいと考えている。これは現状の5000億からすると約20倍の目標であり、とても見通しが立てられる状況にはないが、今回のフォーラムを通して、産業界の強い熱意を感じ、心励まされる思いであった。

 今後、日本各地を歩いて、このロボット産業への火を色々なところに灯してゆきたいと考えた次第である。

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11月15日(火) 原子力 宇宙開発 ロボットは 我ら戦略 三兄弟 エイ!

171115

 紀宮様の結婚式の日。とは言いながら、私にとっては、特段に何かがあるという訳ではない。

 午前中は、主にOAK・TREE原稿中心に執筆。昼前から全国治水砂防大会、情報産業議連、政策金融機関改革会合等と続く。

 そして、午後3時からは、宇宙議連の会合。今回は、日本の宇宙開発の方針を審議・決定する宇宙開発委員会のメンバーとの懇談会であった。10月中旬に福岡市で開催された国際宇宙会議のシンポジウムで、委員長と改めて東京でもっと率直な話し合いをしようと合意していたものを、実現したものであった。

 約2時間にわたり、宇宙開発の現状、そして未来展望等について、かなり基本的な部分の問題を語り合うことができたと思う。そして、5項目の意見集約をさせて頂いたので、今後は、その方向において、宇宙議連の運営を進めると共に、宇宙関係者を督励してゆきたいと思う。

 尚、この日は、その後夕刻より日本原子力研究開発機構の皆さんとの勉強会も開催した。10月1日に日本原子力研究所と核燃料サイクル研究開発機構が合併して、新機構が誕生したばかりであるが、今後の原子力政策を巡って、この場も率直な意見交換をさせて頂いた次第である。

 午後9時頃に会合を終了し、事務所に戻る。
 宇宙開発と原子力と言えば、両方共、科学技術が先導する国家的大プロジェクトである。国としてのしっかりとした戦略を持って取り組んでゆかなくては、世界の動きに対応できなくなる懸念がある。これら分野にきちんとした方針を打ち出してゆく必要性を痛感した次第。

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11月10日(木)~13日(日) 四日間 韓国へ行き 為せしこと 総会講演 宝塚まで

171110

 日韓・韓日議員連盟合同総会が韓国ソウルで開催されるため、私も、4日間の日程で、ソウルを訪問。

 まず第1日目は、午前9:15発の羽田ー金浦シャトル便でソウル入り。この日は、韓国前首相の高建先生をお訪ねして意見交換。その後、ソウル市内に川を復活したと話題になっている清渓川(チョングチョン)を訪ね、見学。その後、金元基・韓国国会議長によるレセプションの後、宝塚韓国公演プレビューのショーの観賞。

 翌11日が合同総会の日程であった。
 朝8時から、この合同総会の運営委員会。そして10時から開会式、全体会議、ヒルは、潘元文・外交通商部長官主催の昼食会をはさんで、午後1時から5時まで分科会。私の場合は、21世紀委員会の責任者であり、若手国会議員の交流事業を今後どんな形で進めてゆくかについて、協議を行う。

 この日の夜は、文喜相・韓国議連会長主催の夕食会。この夕食会では、歌による交流ということで、韓国の歌「出会い(マンナムン)」と日本の歌「見上げてごらん夜の星を」を両国国会議員が一緒に歌った。

 12日は、朝食会を前・在日韓国大使館公使の金さんと行った後、国会議員相互交流事業で、韓国側21世紀委員会長の地元である仁川を訪問する。まず、桂山高校を訪れ、そこで約200名くらいの生徒、先生、父兄を前に講演。そして交流会の後、仁川の科学技術団地の視察。それからソウルへ戻り、知人と面会。夜は、宝塚歌劇団レセプション。

 最終日13日は、ホテルの部屋で少し今回の旅の整理を行った後、空港へ。午後3時頃羽田着。
 以上が今回の韓国訪問の概要である。とても細かな内容は紹介できないので、OAK・TREE誌来年1月号で詳しくご紹介したい。

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11月7日(月) 大会で 夢・知恵・元気も いいけれど 金も出せよと 痛い一撃

171107

 午前中は、自宅でOAK・TREEフォレストの資料作成と雑務処理。正午より、新居浜地元事務所で事務所会議。その後、西条市場を何カ所か回った後に、西条総合文化会館へ。

 この日は、愛媛県全域の商工会議所の議員が集まって、中小企業振興について協議すると共に、愛媛県・国等への要望を決議する県商工会議所議員大会であった。

 来賓として、加戸愛媛県知事、森高県議会議長、伊藤西条市長等が来ておられた。

 私にも、挨拶の時間を頂いたので、次のようなことを語った。

 「今、激動の時代、混迷の社会にあって、中小企業経営者皆さんも、この変化の渦の中に新しい道を懸命に模索しておられると思う。愛媛県経済界の中心的役割を担っておられる皆様が、この時代に新しい愛媛県の姿を描き出して頂けることを心から期待したい。そこに2つの言葉を御紹介しておきたい。

 1つは、伊庭貞剛氏の言葉、『熟慮・祈念・放下・断行』である。そしてもう1つは、私の言葉『夢出せ!知恵出せ!元気出せ!』である。こんな考え方で、私も国政側から愛媛県の発展に力を尽くしたいと考えているので、よろしくお願い申し上げたい」と。
 
 すると、この後の決議案採決の場面で、私の先輩にあたる村上景一さんが、「夢・知恵・元気」だけじゃなくてもう1つ「お金も出せ!」と言いたいと言われたのでつい苦笑。まぁ、経済人の皆さんの本音だろうと思った次第。

 この会の後、JRで上京。車中、OAK・TREE原稿執筆や、各種企画の立案等を行う。

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11月5日(土) 地元にて ゆちげ運動 スタートす 思いデカイが 聴衆2人

171105

 午前10時より、地元・四国中央市で、戦没者・公職殉職者の追悼式。250名くらいの出席者であった。私からは、今春、硫黄島を訪問した時のことを御報告し、追悼させて頂いた。

 その後一度新宮のヤング・リーフ・ハウスで、活動準備をさせて頂いた後、午後1時から川之江地区で第1回「ゆちげ運動」を開催。この「ゆちげ運動」というのは、地域住民自身の中から、「夢出せ!知恵出せ!元気出せ!」という強い思いが起こり、それが具体的行動になってくる中で、地域自らの力で地域を活性化させてゆこうとする運動である。それには、広く、多くの住民皆さんに語りかけて、意識を育む活動をしてゆかねばならず、街頭で不特定の皆さんに呼びかけてゆこうと考えた次第である。

 しかし、文化祭会場なら人がいるだろうと教えられて行った場所に全然人がいない。人のいないところで話をしても意味がないかと思わないでもなかったが、しかし、たとえ数多くの人がいるところで語っても、本気で聞いてくれないなら人がいないのと同じ事。天に向かって仕事をするつもりで、これまでの政治活動もやってきたわけだから、この「ゆちげ運動」も天に向かって語りかける気持ちで始めようと志を決して、語り始めた。

 そうすると、1人の女性がやって来て、話を聞いて下さった。更に暫くすると元・後援会長も、どんな様子でやっているのかとやって来てくれた。結局、参加者はこの2名。

 何とも心淋しくなるようなスタートであったが、これもまた良く、最初に形だけうまく事が運ぶよりも、問題が顕わになる方が先行きが良くなる気がした次第であった。

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11月1日(火) 年初より 走り続けた 国会が 閉じてようやく 冬ごもりかな

171101

 特別国会最終日。
 9月11日の総選挙の10日後に開会して、以来42日間の国会であった。冒頭に議長、副議長選出と内閣首相指名を行い、新しい態勢を作った上で、郵政民営化法案を成立させたり、前国会で積み残しとなっていた法案の処理を行った国会であった。

 私にとっては、国の財政・金融等を審議する財務金融委員会の委員長に就任をして、銀行法改正案を審議・成立させた国会でもあった。

 激動の時代、混迷の社会にあって、これから日本政治は、困難の中を暗夜の中にただ一燈を頼む思いで、道を拓き歩んでゆかなくてはならない。その厳しさを痛感させられた国会でもあった。

 振り返って、今年は年初以来、ここまでずっと全力で駆け続けてきた気がする。1月に通常国会が開会されて、予算・税制等を成立させ、続いて、郵政民営化問題等の改革問題に取り組み、これが否決され、衆議院解散総選挙・・・。

 ずっと国会に縛られていたため、色々な懸案が積み上がってしまっている。特に外国に出掛けることもままならなかったため、今年中に、韓国、中国に一度行かなくてはならないし、財務金融委員会として、海外視察旅行も計画しなくてはならない。また12月に入れば、来年度の税制と予算を自民党・公明党と政府で決める作業も進めなくてはならない。

 今年は酉年であったが、何とも夜明けから日暮れまで慌ただしく駆け巡り、鳴いた1年であることよと思う。

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