« 2006年7月 | トップページ | 2006年9月 »

8月26日(土) あまたの旅あり しかれどかくも 豊かな旅なし 旅は道づれ そんな気がする

Img20060826

 8月24日(木)は、蘭州から四川省の省都である成都へ。ここで飛行機を乗り継いで、昆明へ向かうのであったが、折角の機会であり、成都で時間を取って、市内観光。三国志の英雄である劉備玄徳や諸葛孔明が祀られている武候祀や、杜甫が住んでいた杜甫草堂を訪れる。また道教の中心寺院である靑羊官が、丁度この日国際会議開催という日でもあり、そこも特別に訪問。夜は飛行機で昆明へ。

 25日(金)は石林見学。一面に奇岩が林立する姿は圧観。その後、我々は2手に別れて、一方は、かつて国際花博が開かれていた会場へ。そして、もう一方は、昆明湖畔の温泉(近代スパ)へ行って、旅の疲れを癒した。
 そして、夕食後には、国際的に著名なバレーダンサー楊兩萍がプロデュースしたという、少数民族の歌と舞踊のショーを見に行った。とても素晴らしい舞台であった。

 そして、26日(土)。この日は朝から、雲南民族村へ。雲南省に住む24の少数民族の伝統や文化を一カ所に集めて紹介している場所であった。会場は広大で、全てはとても回りきれず、主なところ5箇所を回る。

 それから昼食後、昆明空港から上海へ。、上海空港着が午後6時。そこから上海市内へ入り、平和飯店の屋上から夜の上海見物。そして、食事。最後の夕食会であり、ここでは、旅の中で参加者が作った俳句のコンテストも行った。そして、旅の思い出を1人ひとりに語って頂いた。

 翌27日は、朝、上海浦東国際空港から、日本へ戻る。

 振り返ってこの一週間の旅は、毎日毎日がとても刺激の多い、有意義な旅であったと思う。中国西部の各州を、北から南へと駆け抜けた旅であった。今回の旅は、遊路トラベルの志賀社長自身が随行して下さったが、その見事な計画と心配りには頭の下がる思いであった。心から感謝したい。また旅の中でトラブルが、全くと言っていいほど何も無かった。一週間を超える海外旅行でそんな旅は珍しい。参加された方々にも深く感謝したい。

|

8月23日(水) 妻の名を つけて生まれし 学び舎よ つぶらな瞳と 黄土高原

Img20060823

 朝7時頃の飛行機で、今度は敦煌から甘粛省の省都蘭州市へ。

 蘭州市では、甘粛省の省長であり、また共産党書記である陸浩先生にお会いすることを楽しみにしていたが、残念ながら、急遽北京で大切な会合が開催されたので、それはかなわないとの事。

 しかし、もう1つ大きな楽しみがあった。それは、7年前に、この蘭州市郊外の黄土高原の貧しい村に創った小学校を訪れることであった。あの頃の小学生はもう卒業しているはずである。その後、学校はどんなに運営されているのだろうと、期待で一杯であった。

 まず蘭州市内で、黄河見学と昼食を終えてから、いよいよ小学校へ向けて出発。途中からは黄土地帯であり、所々に小さな集落がある以外、道路以外の人工物がほとんど何もないところを自動車は走ってゆく。すれ違う自動車もほとんどない。こんなところを約2時間半走って、自動車はようやく小学校へ着いた。

 前に訪れた時と同じで、歩いて小学校へ登ってゆく坂道に、生徒達の楽隊がいて、ラッパと太鼓で迎えてくれた。楽器のない子は、リボンを一生懸命に振って迎えてくれた。そして、校門を入ると驚いた。地域の人たちが約150名も、そこで私たちを待っていて下さったのである。聞くと、30㎞も離れた所から駆けつけてくれた人もいたのだそうだ。

 恒例により、中国側から歓迎と感謝の挨拶。そして、私が訪問団を代表して、このように歓迎して頂いたお礼と子ども達への激励の挨拶。

 その後、訪問団の中に学校の先生がいて、折り紙を持ってきていたので、その校庭で子ども達を相手にして、折り紙教室が始まった。大きな人だかりとなって、大盛況であった。私はその間、集まって頂いた方々に感謝の心と共に握手をして回った。 

 最後に私から“夢出せ!知恵出せ!元気出せ!”のスローガンと共に、そのテーマソングを歌った。そして、記念撮影をして、お別れをした。

 その帰りの車中、同行の市原実先生が、“中国国内でいくら反日運動が起こっても、この子ども達は、日本の事を悪く言わないでしょうね”と語った。その言葉がとても嬉しかった。その通りだと思う。

 夕刻、蘭州市内に戻り、夜は甘粛省政府の歓迎宴。省長に代わって、秘書官が主催して、なごやかな会を開いて下さった。自然に心が溶け合う時間であった。

|

8月22日(火) 碑林とて 心入らずば ただの石 豚に真珠か 猫に小判か

Img20060822

 朝8時半から、敦煌のまちの中心にある沙州楽園という公園において、“励志碑林”の完成式典。この励志碑林というのは、日本と中国の先人が残した志の言葉を、各々の国から25ずつ選んで、その言葉を日本語と中国語で石に刻み込んだものを、この公園に設置をしたものである。

 一昨年の5月に一期工事を終えていたが、その後、碑を作り変えたり、新たなものと加えたりして、この日に完成式典を行った次第である。

 参列者は、日本側が今回の旅のメンバー22名。中国側は、この碑林建設委員会のメンバーに市民が加わり、更に、近所の小学校の音楽隊も参加していた。全員で約150名というところだろうか。

 最初に、小学生音楽隊が、ラッパと太鼓で開会のアトラクション。続いて、敦煌側建設委員長の姜徳治さんが、この碑林建設の意義と日本の協力への感謝の挨拶をされ、その後、私が日本側を代表して挨拶。そこで、日本と中国の友好発展への願いと青少年の健全な成長を祈る気持ちをお話しした。更に、この地が世界平和の原点の地となる願いを持っているのだと、一昨年この地で発表した敦煌宣言文を読み上げた。その後、日本側の2人の参加者からの挨拶。更に子どもたちへのプレゼント等を行った。

 この式典終了後、私は、その後もなかなか立ち去ろうとしない敦煌市民の1人ひとりに握手をしつつ、この碑林を大切に育てて欲しいとお願いをして回った。この瞬間、碑林の石碑に、市民の心が宿った気がした。市民皆さんは、各々に感謝の言葉を語って下さった。

 その後、世界最大の仏教美術館と言われる莫高窟へ行き、更にシルクロードの関所があった陽関へも行った。そして、他のメンバーが鳴沙山へ行っている間、有志数人が再び、沙州楽園を訪れた。石碑の写真撮影のためであった。この時、地域の子どもたちが私たちを取り囲んだ。そこで、私たちは、この石碑を作った思いを語りかけた。子ども達は、目を輝かせ、自分たちもこの言葉に学んで、しっかりと人生を生きてゆきたいと語ってくれた。またこの時、石碑辟に心が入った気がした。

 夜は、包・敦煌市共産党書記主催の歓迎宴。歌い飲み踊った。確かなきづなが生まれつつあると感じた。

|

8月21日(月) 人ひとり 亡くなりしとて 何故ゆえに かくも巨大な 墳墓作れる

Img20060821

前日、日本を発って、中国の西安へ。途中の上海で、成田空港出発組と岡山空港出発組が合流して、夜の10時過ぎに西安空港に到着。ホテル着は午後11時過ぎ。

 この日は、朝から、長い期間中国の都が置かれていた西安の観光。西安には既に何度も訪れている人と初めてという人がいるので、二手に分かれての観光とした。初訪問組は、おきまりのコースで、秦の始皇帝が作らせた壮大な兵馬俑、三蔵法師がインドから持ち帰った教典を保存するために作られたと言われる大雁塔、そして、シルクロードの起点となった西の大門を回る。

 一方、私たちは、西安郊外の皇帝の陵墓を回った。初めに、西の大門を訪れた後、一路西安北西部の乾陵へ向かった。この道程の所要時間は約2時間半。ここは唐の時代の高宗とその皇后で中国初の女性皇帝となった則天武后が一緒に葬られている陵であった。この中はまだ発掘されていないのでどんな風になっているのか分からないが、その参道に立てられた多数の石像などを見ると、その当時の権力の大きさが偲ばれた。

 この時、少し小雨が降っていた。それが一層権力のはかなさを感じさせた。いかに大きな権力を有した人であっても、いつか死を迎えることは、どんな人でも同じ。確かに、死して後にこれだけの大墳墓を残したが、それが一体何だと言うのだろう。一生涯を権力闘争の中に明け暮れた則天武后の人生に思いを巡らせると、むしろ哀れささえ感じた次第である。

 それから、近隣の永泰公主墓に隣接する食堂で昼食を摂り、中が公開されているこの墓へ。一番奥の棺の部屋に至る坂道となった通路には、色鮮やかな壁画が描かれ、よう々な埋葬品が置かれていた。私は、中国の陵の中に入るのはこれが初めてであったが、小さな墓でこれだけのものならば、大きな墳墓には想像を絶するものが秘蔵されているのだろうと思う。

 ここから、次は、最近発掘され始めたばかりの陽陵へ。これは、景皇帝の墓である。陵の周辺が発掘調査されていたが、そこに数多くの埴輪が発見されていて、当時の人々の生活ぶりが感じられた。

 中国では、墓の中に歴史が大切に守られていることを感じた。この漢や唐の都であった西安で中国の悠々の歴史に思いを巡らせた一日であった。

 この後、夜の便で敦煌に移動。
8月21日(月)

 前日、日本を発って、中国の西安へ。途中の上海で、成田空港出発組と岡山空港出発組が合流して、夜の10時過ぎに西安空港に到着。ホテル着は午後11時過ぎ。

 この日は、朝から、長い期間中国の都が置かれていた西安の観光。西安には既に何度も訪れている人と初めてという人がいるので、二手に分かれての観光とした。初訪問組は、おきまりのコースで、秦の始皇帝が作らせた壮大な兵馬俑、三蔵法師がインドから持ち帰った教典を保存するために作られたと言われる大雁塔、そして、シルクロードの起点となった西の大門を回る。

 一方、私たちは、西安郊外の皇帝の陵墓を回った。初めに、西の大門を訪れた後、一路西安北西部の乾陵へ向かった。この道程の所要時間は約2時間半。ここは唐の時代の高宗とその皇后で中国初の女性皇帝となった則天武后が一緒に葬られている陵であった。この中はまだ発掘されていないのでどんな風になっているのか分からないが、その参道に立てられた多数の石像などを見ると、その当時の権力の大きさが偲ばれた。

 この時、少し小雨が降っていた。それが一層権力のはかなさを感じさせた。いかに大きな権力を有した人であっても、いつか死を迎えることは、どんな人でも同じ。確かに、死して後にこれだけの大墳墓を残したが、それが一体何だと言うのだろう。一生涯を権力闘争の中に明け暮れた則天武后の人生に思いを巡らせると、むしろ哀れささえ感じた次第である。

 それから、近隣の永泰公主墓に隣接する食堂で昼食を摂り、中が公開されているこの墓へ。一番奥の棺の部屋に至る坂道となった通路には、色鮮やかな壁画が描かれ、よう々な埋葬品が置かれていた。私は、中国の陵の中に入るのはこれが初めてであったが、小さな墓でこれだけのものならば、大きな墳墓には想像を絶するものが秘蔵されているのだろうと思う。

 ここから、次は、最近発掘され始めたばかりの陽陵へ。これは、景皇帝の墓である。陵の周辺が発掘調査されていたが、そこに数多くの埴輪が発見されていて、当時の人々の生活ぶりが感じられた。

 中国では、墓の中に歴史が大切に守られていることを感じた。この漢や唐の都であった西安で中国の悠々の歴史に思いを巡らせた一日であった。

 この後、夜の便で敦煌に移動。

|

8月12日(土) 友あり 遠方より来たる また楽しからずや 論語の言葉が 胸にしみ入る

Img20060812

 午後2時より「志の道」を歩く会。この日は、新居浜法人会の皆さん方から、一度この「志の道」を歩いてみたいというご要望があり、セットした会であったが、これから同様の趣旨の「有志者の森碑」建設を行おうとする大分県臼杵市からも、後藤市長をはじめとする市関係者が駆けつけ一緒に歩くこととなった。

 少し早く臼杵市の皆さんが到着されたので、まず、この道の奥にあるヤングリーフ・ハウスにご案内し、それから「志の道」起点で新居浜法人会の皆さんと合流して、歩き始める。最初は、この「志の道」が何を意図して作られた道かもよく分からずに参加している人がいたせいか、私が説明していても、表情にそれをどんな風に受け止めたらいいのだろうかといった困惑ぶりが感じられたが、それも、大体第2碑の吉田松陰先生の碑を過ぎる辺りまでのことである。第3碑辺りで、大体参加者の心が整ってくる。それから先は、ごく自然に話を聞いて頂けるようになる。

 この日は暑い日であった。途中でバスに乗って頂いたりしつつ、最後の土光登美さんの碑まで歩き終えると汗だくであった。後で参加者の話を聞いてみると、とても良い経験になり、有意義だったとの事。今後、企業の社員研修等にも、この道を活用して頂ければと願った次第である。

 この一週間後の8月19日には、全国学校栄養士協議会の田中名誉会長をはじめとする方々が、研修の一環として、この地を訪れて下さる事となっている。この時は、新居浜市の青年グループが合流して、一緒に歩く予定である。

 この「志の道」は西暦2001年に作った道であり、今年の11月3日で、丁度5周年である。5年の月日の間に、徐々に色々な方々のご理解を頂けるようになってきた。その火種が、中国の敦煌に飛び、そして臼杵市に飛び、更にここから先、日本の各地に広がっていこうとしている。とても嬉しく思うと同時に、これまでご協力頂いた皆さんに改めて感謝したいと思う。

|

8月11日(金) シンポなる 名を冠したる 会なれば…

Img9151800440001_1

 この日は終日、岐阜県各務原市で、“ロボフェスタ・シンポジウム。”

 昨年夏、愛知万博会場を中心に開催された“ロボフェスタ2005”について、その成果を評価すると共に、これから先、このロボフェスタ運動をいかに進めてゆけばよいかということについて、関係者が集まって論じ合おうというシンポジウムであった。出席者約150名。

 まず最初に、ロボフェスタ2005の実行委員長を務められた、大熊繁・名古屋大学教授から、開会挨拶。そして、それに続いて2つの特別講演。

 最初は、「日本の技術と伝統」と題して、犬山市に伝わるからくり人形について、溝口正成・犬山市文化資料館長と九代目玉屋庄兵衛さんが、からくり人形を実演しつつお話しされた。登場したのは、お茶を給仕するの、矢を射て的に当てるというからくり人形であった。続いて、佐々木実・岐阜大学教授からの「岐阜地区におけるロボット開発・ロボット教育について」と題する講演であった。

 それから、内閣府科学技術政策特命大臣である松田岩夫先生からの基調講演。第3次科学技術基本計画におけるロボットの位置づけや今後の取り組みについてのお話であった。

 その後、パネルディスカッション。中野栄二・国際ロボフェスタ協会理事長、福田敏男・名古屋大学教授、石田宗明・三重大学教授、矢野賢一・岐阜大学助教授、そして私が、パネラーとなる。コーディネーターは石原秀則・香川大学助教授が行った。各々の立場から、これまでの取り組みを分析し、また、今後の展望を論じ合った。

 この日の議論は、ロボット教育をいかに推進していけばよいかという点が中心の論点であり、最後には、この日の議論を基に、「ロボット教育振興宣言」の採択をした。これから、この宣言を基に、関係部署に強く働きかけて、ロボフェスタをきちんと日本初の国際イベントとして育成すると共に、ロボット教育を日本教育の中に定着することを図ってゆきたいと思う。

 短時間で準備して開催したシンポジウムであり、多くの方々にご無理なお願いをした会
であったが、多くの方々の力により、一定の成果を収めることが出来、胸をなで降ろした次第である。

|

8月8日(火) かみ合わぬ 議論は無知から 生まれるか 目を見開きて 相手見つめん

Img9151800440001

 午前10時半より、四国ブロック両院議員会。9月に行われる自民党総裁選を前提とした“自民党四国ブロック大会”をどう開催するかについての打ち合わせである。

 それから、8月末の中国訪問の打ち合わせや財務金融委員会に関するレク等があり、午後2時から、橋本龍太郎元総理・総裁の内閣・自民党合同葬。北の丸の日本武道館で行われたが、政界、経済界、外国大使館関係者、各種団体関係者等、数多くの参列者であった。

 そして、この日の夕刻からは、韓国側21世紀委員会の国会議員をお迎えしての懇親会であった。赤坂にある釣船茶屋「ざうお」というところで開いたが、この茶屋の中央生簀から自分で魚を釣り上げて、それを料理にしてもらうという、粋な趣向の店であった。日本側8名、韓国側7名の国会議員に、両国議連の事務局が加わる形で行った。

 時丁度、終戦記念日を前にして、小泉総理が靖国神社に参拝するかどうかが賑やかに報道されている時でもあり、その場では、自然とこの問題が話題となった。私は、この問題は、両国が、各々に異なった虚像を基に、各々の見方で偏った受け取り方をして、更にそれを拡大解釈して激しく批判し合う形となっているのではないかと率直に語った。
 少なくとも私は、靖国神社にA級戦犯が合祀されているからと言って、この人たちに対して、政治的意図を持って参拝をしているわけではなく、戦場で散華された数多くの兵士達に対して、純粋に追悼の誠を捧げるために参拝をしているのである。屁理屈といわれるかも知れないが、ある極悪人が葬られている寺の墓地に、自分の親も同じく葬られているとして、その親の墓参りに行くと、それが極悪人も正当化することだと批判される道理があろうか。また日本側も、韓国の人たちを誤解しており、共に悪感情をかき立て過ぎているところがある。

 私たちは、もっと現実をきちんと見て、相手を正当に理解し合って、尊重し合う努力をしてゆかないとならないと思う。マスコミの余りに偏向した思い込みと悪意に基づく報道、そして、それを基に、国民に向かってあえて反発心を煽るように大声で語る政治家たち…。もうこんな馬鹿馬鹿しいことはやめよう。共により良くなるためには、私たちはもっときちんと現実を見ながら、共に努力をしてゆかねばならないと思う。

|

8月6日(日) 神下す 臼と杵とが 名の由来 されば搗かばや 大和魂

Img9151800560001

前日、臼杵市に入り、国宝の臼杵石仏の前にある広場に、中国・敦煌市から贈呈された石碑をいかに設置するかという相談に対して、現地を見ながらその調査検討を行った。また、「提言・実践首長会」の教育問題フォーラムにおける全体討論に、パネリストの一人として参加もした。

 そしてこの日は、午前11時から、臼杵市商店街の中心にあるリーフデ臼杵で開催された「有志者の森碑事業説明会」での講演である。会場には、当初50名か60名くらいの参加者だろうかと市役所の方から聞かされていたのだが、行ってみると、約100名もの方々がお集まり下さり、盛大な会が開かれた。この臼杵市は、約10年前に敦煌市と友好都市関係を結んでいる。そして、その後、活発に相互交流を積み重ねてきている。その歴史があるだけに、この事業に対しても、強い関心をお持ち頂いているということだろうか。

 会は、この交流事業の責任者である、臼杵敦煌会の会長の挨拶に始まり、続いて後藤・臼杵市長の挨拶。その後、私から、約50分間にわたり、この「有志者の森碑」を建設する意図とこの雛形である愛媛県四国中央市新宮町に作った「志の道」の説明を申し上げた。最初は、愛媛からわざわざやってきた国会議員ということで、その意図を訝るようなよう子も見られたが、話が進むにつれて、その疑問が氷結したということであろうか、段々と深く聞き入って頂けるようになったと感じた次第である。

 この森碑建設事業は、石碑を建てる事が目的なのではなく、その石碑の中に多くの人の心を加えて、ここを訪れる多くの人が、心の故郷と感じていただける場を作ることが目的である。それには、何と言っても、地域の皆さんのこの森碑への深い理解と協力が大切である。

 この日の会が第一歩となり、この森碑が臼杵市民皆さんの尊い気持ちを宿すものとして、これから大きく成長することを願った次第である。

|

8月4日(金) 学校は コンビニショップと よく似てる どんな意味かは あえて語らず

Img9201038580001

 朝、議員会館事務所で少し仕事を処理してから、羽田空港へ。そして、10時20分羽田発の航空便・スターフライヤーで北九州市へ。11時55分北九州空港着。

 そこに迎えに来てくれていたのが、竹内裕二さん。北九州市や福岡市で、子ども育成運動や地域起こし運動に取り組んでいる青年である。この日は、夏休み特別企画として、「これからの子どもたちに何が出来るのか?」というテーマの議論をしたいので、その基調講演とパネルディスカッションのパネラーをして欲しいとの依頼を頂いて、訪れた。迎えの自動車の中で、地域の色々な情報を聞かせて頂きながら、北九州市内へ。そして、小倉城を眼下に見下ろす北九州市役所の最上階にあるスカイレストランで昼食。それから会場の公民館へ。

 会合は、午後3時半からであった。まず最初に、主催者の竹内さんから開会挨拶の後、私から40分間くらい、こどもを育てる上に必要な色々な視点についての講演。そしてその後、地域で社会教育にあたっている人たちや学校の教師と共に、パネルディスカッション。

 ここでは、色々な視点からの議論が行われたが、最も大きな問題提起は、学校と家庭・地域社会が、これからいかに強く連携しながら、子どもを育ててゆくかという点にあったように思う。そこで私からは、この連携を図る上では、やはり学校が一定の役割を果たしてゆくことが大切ではないか。それには、学校の責任者である校長先生が、もっと地域社会に出て行って、自分の持つ教育論や人生論・社会論などを、常に地域の皆さんに語りかけ、学社連帯の考え方をより理解頂くと同時に、活発に意見交換をする場を設ける必要があるのではないかと提案し、私自身も、文部科学省の施策の中で、この実現を図る努力をしてみたいと語っておいた。この点は、参加者皆さんから、大旨ご賛同を頂けたのではないかと思う。

 夜は、竹内さんが中心となっての懇親会。地域起こしに取り組んでいる色々な方々が参加して、談論風発の議論が行われた。

 翌5日は、大分県臼杵市で、教育問題を論じるフォーラムである。教育基本法の議論の中で、また青少年の問題が各地で深刻化する中で、この種の、教育や青少年育成に関する議論が活発になってきていることを肌に感じる。私としても、今後、きちんとした形で、この教育に対する指針を描き出してゆかねばならないと考えた次第である。

|

8月3日(木) 世と共に 思い歩みて 考えた OAK・TREEは 今、峠に立てり

Img8111142370001

 この日、韓国ソウルを午前中に発ち、羽田空港に13時55分到着。

 それから永田町へ戻り、幾つかの雑用と、夜の会の準備をしてから、ルポール麹町へ向かう。

 実は、この日、OAK・TREE誌がこの8月号で250号になったことから、その読者を中心として、“OAK・TREE誌250号記念懇親会”をこの場所で開催したのであった。参加者は約80名。毎月一度開催している朝食会のメンバーを中心として、気のおけないメンバーが広く集まって下さった。

 最初に私から、このOAK・TREE運動の22年半の年月を振り返っての思い出話と今後の活動展望を簡単にお話させて頂いた後に、乾杯。それから後は、参加者にマイクを握って頂いて、OAK・TREE運動の中の色々な思い出や、今後の活動への注文等を自由に語って頂いた。

 この250号というのは、大きな節目であると私は考えている。つまり、100号までが「起」で、愛媛県議会議員として新居浜で基礎を培った期間。次の200号までは「承」。衆議院議員として、運動を日本全域に拡大した期間である。そして、この250号までが、「転」の前半期であり、この運動が実質的に社会を動かす活動を進めてきた期間である。従って、これから300号までの「転」の後半期にあたる約4年間に、よりダイナミックに社会を動かしてゆく運動にしてゆきたいと考えているものである。そして、それから後は「結」の期間であり、それまでに培ってきたものを整理し、広く深く実りを成就してゆく期間となると考えている。

 それだけに、これから先が、多くの人のご協力が必要であり、また様々なご意見が求められる時でもあると考えた次第である。
 多くの方々が、各々の思いと志を語って下さった。今が、OAK・TREE運動の峠。先を展望しつつ、これまで以上に力強く歩んでゆきたいと思う。

|

8月1日(火)~3日(木) 韓国の 今度の旅は キムチチゲ 熱くて辛くて 汗が止まらず

Img9201038520001

 韓国訪問。目的は、日韓議連21世紀委員会の打ち合わせと今秋ソウルで開催予定の新世紀文明会議国際シンポジウムの準備。

 8月1日朝7時、議員宿舎を出発、羽田空港へ。8時20分羽田発10時40分金浦空港着のシャトル便で、ソウルへ。

 ソウルに着いてみると、韓国国会は、少し前に就任したばかりの副総理兼教育委員大臣に対して、研究者時代の問題で辞任要求が出されていて、大混乱。事前に面会依頼をしていた権哲賢教育委員長は勿論のこと、他の国会議員も、国会日程上動きがとれないとの事であった。そこで、折角の時間が出来たので、何でも世界第5位の大きさという新設の巨大な国立博物館へ行き、と言っていた、韓国の歴史・文物等を見学。そして、その後国立墓地を訪ねて、韓国人戦没者に慰霊の誠を捧げる。
 
 それからホテルに戻り、清渓川等ホテル周辺を散策。

 夕刻からは、今年11月に韓国ソウルで予定されている新世紀文明会議国際シンポジウムの打ち合わせ。李康来・韓国国会予算委員長、金容雲先生、朴権相先生と率直な意見交換。

 8月2日は、かつて日本の韓国大使館で公使を務めていた金奎澤氏と朝食を摂りつつ意見交換。更に、文明研究において韓国側の中心である、世宗研究所の李勉雨氏とも会って意見交換。更に、来年暮れの大統領選挙に向けて国民の人気が現段階でトップと言われる高建先生にもお会いして、文明会議の今後の進め方について、ご意見を伺う。

 その後、韓日議連の宋永吉21世紀委員長と昼食を摂りながらの懇談。日韓間の色々な問題について意見を交わす。

 それから向かったのが、韓国の独立記念館。ソウル市から高速道路を使っても約1時間半の距離である。韓国が1945年8月の独立回復に至るまでの歴史が展示されている場所であり、その展示館は、広大な土地の中に7つもあった。この機会に、韓国をより深く理解したいと訪問した次第である。日本語の堪能な女性が、最初から最後まで私たちについて案内をして下さる。反日的色彩の強い展示内容であるが、民族の歴史ということについて、深く考えさせられる。

 そこから再びソウルへ。交通渋滞が激しく、今度は2時間余り戻るのにかかった。それから、ソウル市内で、日本大使館職員たちと、夕食を摂りながらの懇談会。この機会に、大使館員の生の声を聞かせて頂く。

 以上が、今回の韓国訪問の概要であり、翌3日朝の便で日本に戻る。いつもながら慌ただしい日程であったが、自分で自由に動ける時間もあり、より深く韓国が理解できた気持ちになったのが大きな収穫。

|

« 2006年7月 | トップページ | 2006年9月 »